そんな時期がありました。また、なおさら書痙という症状があったので、
求人雑誌から「測量・補助」の会社に応募しました。
すると、面接もせず、即採用で初日から仙台に行ってもらうと言われ、
ワークマンショップで必要なものを買ったあと、すぐに現地仙台へ。
仙台で待って居たのは、プロの測量士2人と車の運転をしていた先輩たちでした。
この頃、ホウレンソウも知らずに、仙台のアパートで共同生活を始めました。
あまりにも早い行動と過酷な現場でしたが、なぜか生活は充実していました。
特に、劇的に厳しい当時35歳の係長は頭の回転が早く、仕事のON-OFFも
理解のある人でした。私はその背中を見て将来この先輩のようになりたいと、
リスペクトしていました。
目標を持った生活でしたが、さすがにものすごい重労働と会社に迷惑をかけてしまい、
1年で仕事を辞めてしまいました。今まさに10年が経過し、35歳になりましたが、
あの頃と比べて成長したかといえばYESとは言えません。
が、もし仙台の暮らしがなかったら今の私はなかっただろうと思います。
被災地での記憶が鮮明に今も残るなか、先輩たちがどれほど辛い状況だったか、
考えるだけでも、もっと新たに目標を持って頑張らないとと思っています。